伊能忠敬が作った地図が見られる特別展に行く『伊能忠敬記念館』@千葉・香取
千葉県香取市にある『伊能忠敬記念館』へ行ってみた。
この前、あるクイズ番組で伊能忠敬にまつわる問題が出されたんですが、この時、伊能忠敬が実際に作った日本地図が見られる特別展がこの記念館で開催中と告知がありました。
私は普段から「地図は見るものではなく読むもの」を標榜にしていますが、伊能忠敬直筆の地図が見られる、いや、読めるというので、特別展へ行ってみた次第。
記念館では、伊能家や伊能忠敬の生まれから全国を測量した時のルート、技法、地図などが常設展示されてますが、館内は撮影禁止なのでいつも以上にパネルの解説を真剣に読んだりして、思ってたよりも時間が掛かった。
↑これは記念館のパンフレット。
写真が撮れない代わりにワークシートが全部で8種類置いてあり、展示の内容を穴埋めしたりメモを取ることはできます。
伊能忠敬が最初に測量したのは蝦夷地(北海道)で、測量隊の人数は5人。
第2次測量は関東~東北地方の太平洋側で、測量隊は5人。
第3次測量は東北~北陸地方の日本海側で、測量隊は6人。
第4次測量は東海~北陸地方で、測量隊は7人。
第5次測量は近畿~中国地方で、測量隊は一気に増えて17人。
第6次測量は四国地方で、測量隊は15人。
第7次測量は九州地方で、測量隊は17人。
第8次測量は九州地方(2回目)で、測量隊は19人。
第9次測量は伊豆諸島で、測量隊は11人。
第10次測量は江戸で、人数はわかりません。
小学生気分ですべてのワークシートを埋めて、知見を持って帰りました。
さらに、記念館で展示している資料をまとめた冊子もあり、値段も手頃だったので買って帰ることに。
この資料には館内で撮影できない伊能忠敬が描いた地図も載っており、写真代わりに持っておくのもいい。
伊能忠敬が江戸幕府の命により作った地図のうち、幕府に提出された正本にあたる「大日本沿海輿地全図」は明治時代に焼失してしまい、さらに幕府に提出していない副本は伊能家で保管されたり各地の大名などに贈られたそうですが、関東大震災で伊能家所蔵の副本も焼けてしまいました。
ところが、2021年になって各地へ贈られた副本の一部が見つかったらしく、今回の特別展ではこの伊能忠敬が作った副本の実物を展示しています。
伊能忠敬が作った地図は「伊能図」と呼ばれ、現代の地図と重ね合わせてもほぼ一致するほどの精度で正確に描かれていますが、江戸時代に実際に歩いて測量して作ったとはすごすぎる。
伊能図の一番の特徴は、測量した結果を地図に反映させる時に折れ線の部分を針で穴を開け、この針穴をつなぐように線が描かれているので地図に無数の針穴が開いているところ。
写本には無数の針穴は開いていないため、この針穴が伊能忠敬が描いたものかどうかの真贋判定に用いられているそうで。
↓これは資料集に掲載されている大阪近辺の地図ですが、記念館には伊能忠敬が通過した村などが細かく記載された地図が展示されており、それを見ると今でも地名として残っている場所がとても多いことに驚くばかり。
例えば、この地図の神﨑川(神崎川)の河口付近の中島、酉島、出来島、佃、大物、金楽寺、杭瀬、加嶋(加島)、三ッ屋、十八條(十八条)など。
記念館に展示されてる地図では、今の国道171号線に沿った西国街道が通る集落、下河原、石橋、麻田(蛍池)、瀬川、牧落、稲、芝、今宮、小野原、粟生、郡山、音市、茨木、上野、耳原、太田、氷室、芥川、別所、萩生、井尻、上牧、廣瀬、大山崎の名前があり、現存してる地名が多いこと。
測量に用いられた器具や使用方法、測量した結果を計算して地図に落とし込む方法など、かなり勉強になります。
星の角度や土地の勾配を測り、緯度を算定するのに用いられました。
さらに、測量する上で重要な基準点となっている一等三角点も設置されており、現在でもなお測量の基準点として用いられています。
国土地理院のサイトでも、一等水準交差点として掲載されている。
伊能忠敬の地図は本当に驚くほど正確で、地図を読むには時間が全然足りなかった。
特別展が終わっても、また機会があればぜひ行きたいと思う魅力的な伊能忠敬記念館でした。